それまで母から「大学へ通う学費を援助して下さっている」としか聞いたことがなかった目白本家から、突然、真駒宛に手紙が届いたのである。美しい筆文字で綴られたその手紙には、「大学を卒業したら、こちらへ来て本家の養子に入れ。そしてのちのち代議士になるための下積みを始めるように」という旨のことが、ごく簡潔に書かれていた。
 これまで身内扱いされたことが一度もない本家からの、「誘い」ではなく命令じみた手紙一通。それを不快に感じたとしても、反発したとしても決して不思議ではなかっただろう。
 しかし手紙を受け取った真駒は、即座にこの指示に従うことを決めた。
 母子家庭では厳しい大学進学を可能にしてくれた本家には義理があったし、本家の一員になれることは誇らしかった。母があれほど惚れ込んだ父、そして歴史上の著名人たちと同じ仕事を目指すというのも決して悪くないと思った。
 それに何より真駒は、母を日の当たる場所に連れ出してやりたかった。父はそれまで、真駒や母の存在を認めてはいたが公にしてはいなかったから、母は「未婚の母」となった事情を誰にも話すことなくひとりで生きてきた。それが、真駒が目白本家の養子になり、あの貞多の血を引く者だと公表されれば、その母は晴れて「目白真駒の母」「目白貞多の女」という形で世間に認められる。もし自分が目白の代議士として活躍するようになれば、その母の地位もずいぶん上がるだろう。女ひとりの苦労や孤独に黙って耐えながら自分をここまで育ててくれた母に、せめてそのぐらいの恩返しはしたかった。

 目白の本家にはすぐ、承諾の返事を書いた。すでに合格していた大学院と指導教官には、進学辞退の旨を伝えた。後は内田にこの話を伝えなければならない。その段になって初めて真駒の胸は痛み出した。
 ずっと共に行くつもりだった。お互いに支え支えられて、歴史研究の世界で生きていくのだと、ほとんど約束したようなものだった。それを自分は裏切るのだ。生まれて初めてようやく巡り会った、心から分かり合える友人の手を、自分は振りほどいてしまうのだ。
 いくら本心から「これからもあなたは大事な友人だ」だの「できることならずっとここで学問を続けたかった」だのと思っていても、実際にはその友人も夢も捨てていく人間がそんな言葉を口にすれば白々しいだけだろう。
 結局ただ淡々と、本家から招かれたこと、それを受けて目白の地元へ行き、代議士を目指すことにしたことだけを伝えた。内田はやはり驚いたし、少し寂しそうな顔はしたけれども、最後まで怒りや悲しみの色は見せなかった。その優しさが嬉しく、そしてたまらなく辛かった。





 内田とは、卒業式の日、大学で別れた。
「それじゃ吉田、元気でな。真面目なのはいいけどあんまり無理するなよ。体に気をつけてな」
「ありがとうございます。内田さんもお元気で」
「遠いからなかなか行けないと思うけど、ここでずっと応援してるからな。君なら絶対にすごい政治家になれる。頑張れよ」
「内田さんだって、きっと一流の研究者になれると思います。私の分まで頑張って下さい。そして、いつか私がここへ戻ってきたら、その時はきっと有名な教授になって迎えて下さい」
「戻ってくるのか?」
「普通の人が定年で辞める年になったら、私も辞めて、一介の研究者になろうと思います。その頃にはもう大学なんかでは採ってもらえないでしょうけど、学会に入れてもらって論文を発表するぐらいはできるでしょう」
「そりゃいいな。悠々自適な『第二の人生』か。俺が生きてるうちに戻ってこいよ。待ってるからな」
 いつもと変わらない内田の笑顔が辛かった。なぜ、本当に大切なものを、なにひとつ捨てずに生きていくことはできないのだろう。





 その日のうちに、真駒はわずかな荷物をまとめ、A県にある目白本家に赴いた。

 A県では昔から目白家と、同じB党所属の政治家一族C家が強い地盤を持っている。ところがC家の当主には、跡取り息子ができなかった。当然C家では、娘婿を後継者にしようと動いていたが、この娘婿は支持者からの評判が非常に悪いのだという。その評判の悪さにつけ込み、長年議員をつとめている当主C氏の弟が自分の息子を後継者にしようと画策するなど、C家の第2選挙区は内紛の気配を見せ始めていた。
 そしてこの第2選挙区は、目白家が長年守り続けている第1選挙区に隣接していた。
 近いだけに、第2選挙区には目白びいきな関係者、団体も少なくない。B党からは内々に、良い人材がいるならそちらから候補を立ててはどうかという打診があった。しかしそう言われても、適当な候補者など余っているはずがない。本家の跡取りである頼安はいずれ第1選挙区から立つことになる。波真は当代と親しい重鎮議員の後を継ぐべく、既に秘書としてその下で働いていた。将来がほぼ約束されている彼らの進路を曲げてまで、波乱必至の第2選挙区に放り込むことはできなかった。
 そこで本家は、真駒の存在を思い出したのである。大学の学費を援助しているのだから、年齢は分かっている。少し調べれば、大学での成績や評判も分かる。法学部や政経学部といった「政治家の定番」学部卒でないのはマイナスだが、年に似合わないほどの落ち着きや誠実そうな雰囲気など、多少の素質はありそうだ。今から修行を積ませれば、あるいはものになるかも知れない。
 かくして、卒業間近になって突然、真駒は本家に召集されることになったのである。

 毎日のようにA県各地を回り、いろんな人に会い、いろんな集まりに出て話を聞いた。その合間に、寝る間も惜しんで勉強した。現当主と親しい県議会議員の事務所で手伝いを始め、やがて現当主の事務所で秘書の端に名を連ねるようになった。働きながら、有能な秘書として周囲に一目置かれていた武に、代議士の仕事について一から教わった。
 やがてA県の県議会議員選挙に出馬することになった。そのとき真駒はまだ30にもなっていなかったから、危ぶむ声は多かったが、ふたを開けてみれば上位当選だった。有名大の弁論部などで鍛えた経験はなかったものの、よく通る深い声で、真面目さ誠実さがにじみ出るような真駒の演説は、B党の支持者以外にも受けが良かったのである。



 小さな選挙事務所は、初当選を祝う関係者や支持者でごったがえした。
 その大勢の人々にひとりずつ自分で応対していた真駒は、そこに雰囲気の違う男がひとり混じっていることに気が付いた。場慣れしていないから、どうして良いのか分からないのだろう。そのために、男は小柄にもかかわらず変に目立っていた。
 たまらず話を早々に切り上げると、人をかき分けるようにして近づいた。
「内田さん!!」
「……やぁ、吉田、久しぶり。俺がこんなところに来たら場違いかと思ったんだけど、ニュース見て、たまんなくなって……」
 事務所にあふれる立派な花とは比べ物にならない小さな花束を受け取りながら、真駒は自分が夢を見ているのではないかと疑った。この数年、朝から晩まで浸かり続けてきた世界があっという間に遠ざかってしまった。
「当選したの、本当に君だったんだな。おめでとう」
「……ありがとうございます。でも内田さん、わざわざ私のために、こんなところまで来て下さったんですか?」
「他の県の議会の選挙結果なんて、いくら調べても名前しか出てないだろう。だから、当選したっていうのが本当に君なのか、自分の目で確かめたかったんだ。本当に良かった、おめでとう。それじゃ体に気をつけてな」
「あの、内田さん、今日はこれからどう……」
 とっさに会う約束を取り付けようとしたものの、群がってくる人波に遮られて、去ってゆく内田を呼び止めることはできなかった。
 支持者への応対が一段落した後、真駒はひとりで事務所の周辺を探してみたが、もうその姿を見つけることはできなかった。沢山の花束の中からようやく見つけ出した小さな花束だけが、それが白昼夢ではなかったことを教えてくれた。








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