目白真駒の葬儀会場は、参列者やその付き添い、そして取材陣など、大勢の人であふれていた。
党葬はまた日を改めて大々的に行われることになっていたが、それでも首相までつとめた人の葬儀である。押し寄せる黒塗りの高級車や、次々と降り立つ要人らしい参列者たちを、離れたところから見ながら内田は迷っていた。とてもただの一般人が入り込める雰囲気ではない。会場の外に設けられた焼香場所の方が自分にふさわしそうだ。
しかし、前日に武から届いた速達葉書で、「もし葬儀に参列するなら、あらかじめ話を通しておくから、当日、会場の係員に名乗るように」と指示されていた。それを無視して帰るのは、わざわざ連絡をくれた武に失礼だろう。
意を決すると、不審者を警戒してピリピリしている係員にそっと声をかけた。
「……あの、すみません。内田と申しますが、武さんから何か……」
「あっ、内田さまでございますか。伺っております。しばらくお待ち下さい!」
係員は会場の中へ入っていった。大人しくその場で待っていると、やがて係員が若い青年を連れて戻って来た。
「えーと、内田さまですね。藤岡と申します。武先生からお話はうかがっております。今、お席を準備させておりますので」
わざわざ速達までよこしたのだから何か用事があるのかと思ったのだが、どうやらあれは『来れば席は用意してやる』というだけの意味だったらしい。たしかに考えてみれば、武も今や国会議員、それも有名なB党のキングメーカーである。わざわざ自分のために時間を割く余裕などないだろう。
案内された席は、広い式場の後方右隅、補助席らしいパイプ椅子だった。しかしそれでも、参列させてもらえるだけで内田は嬉しかった。
席から祭壇までは遠かったが、それでも遺影はなんとか確認できた。白髪頭で穏やかな微笑を浮かべている写真はおそらく最近のものだろう。写真からさえ感じられるあの気品は、初対面の真駒を他の学生たちから際立たせていたものだ。そうだ、ちょうどこの季節だった。学内のあちらこちらで桜が咲いていて─────
真駒と初めて会った時のことを、内田は今でもよく覚えている。
毎年繰り返される新入生歓迎会は、いつも退屈なだけだった。それでも出席していたのは、サボる口実がなかったからだ。
歴史や研究が好きだというより、ただ「大卒」という肩書きを得るために学科へ入ってくる3年生たちに興味はなかった。どうせ名前を覚える間もなく出て行ってしまうのだ。
せいぜい出されたお菓子で腹をふくらませて、この退屈な時間の元を取ろう。そんなことを思っていると、ふと、ひとりの男に目が留まった。まったく見覚えがないことからして、入ったばかりの3年生だろう。
大部屋の片隅に立っているその男には、決して派手なところはなかった。むしろごく控えめに、騒々しい一団の後ろにひとりたたずんでいた。
そんな男がなぜ目についたのか、内田にも分からない。背が高くて目立っていたからか。自分と同じようにひとりだけ浮いていたからか。いや、とにかく気になったのだとしか言いようがない。
無性に話してみたくなった。大学院生の内田には、3・4年生と顔を合わせる機会は少ない。ここで話しかけなければ、おそらく次の機会はそうそうないだろう。自分の紙コップを片手に歩み寄った。
が、いざその男の前に立ち、相手に静かな目で見下ろされると、内田は急に困ってしまった。もともと、初対面の人間とスマートに話すのは得意ではない。大学院の研究室に入ってきた新入生たちには、決まって「なんだか怖そうな先輩だ」と敬遠され、その誤解をとくのにはいつも時間がかかった。今もまた「怖そうな先輩」に見えているのではないか。でもどうすれば打ち解けた雰囲気が出せるのか分からない。敵意がないことだけでも伝えなければ。
「……初めまして」
自分の声がぶっきらぼうなのが自分でよく分かる。それでも、笑みを作りかけたような曖昧な表情をしていた男は微笑を浮かべた。顔が面長すぎるのと、目が細すぎるのとで美男子とは言えなかったが、なかなか品のある顔立ちだと思った。
「……ああ、初めまして。吉田と申します。この度、史学科でお世話になることになりました。どうぞよろしくお願いします」
「あっ……いや、こちらこそ。院生の内田です。よろしく」
型通りの挨拶を交わしたが、そこから話が続かない。息苦しい沈黙が間に流れる。
やはり余計なことはしない方が良かったのではないか。この男だって笑っていても本当は、変な先輩に話しかけられて迷惑しているのではないか。
適当な言葉が思いつかず、そんな思いに取りつかれていると、相手の方が動いた。
「それじゃ、お近づきの印に」
紙コップを顔の高さに掲げられて、ああ、乾杯かと理解した。何気ない動きにも不思議な品がある。古い立派な洋館で、会ったこともない生粋の英国貴族を前にしているかのような錯覚を覚えた。この男になら、きっと高価なグラスも高価な洋酒もよく似合うだろう。
「乾杯!」
後に続く「べごっ」という音が、内田を現実に引き戻した。紙コップではやはり、乾杯がさまにならない。
「……気持ちだけはベネチアングラスのつもりだったんだけどな」
「私は銀のカップのつもりで」
「銀のカップに葡萄酒か。そりゃ中世ヨーロッパだな」
どちらからともなく笑いがこぼれた。互いに同じようなことを想像していたことが分かって嬉しかったのだ。もう一度コップをぶつけると、幻の葡萄酒に酔ったかのような楽しさがあふれてきた。
この男とは仲良くなれそうだと思った。いや、もっと正確には、こちらの背筋を伸ばさせるような気品と、そんな雰囲気とは不似合いなほど無垢な笑顔とに惚れ込んでしまったのかも知れない。
それからの1年半は夢のようだった。
この、落ち着きすぎておよそ大学生には見えない後輩に、先輩風を吹かせて世話を焼くのは楽しかった。まるで内田より年上のような雰囲気をたたえていながら、この後輩はごく自然に先輩を立てた。
それでいて、話していると互いに不思議なほど打ち解けられた。年齢も、育った環境も違うはずなのに、関心の対象から価値観までよく似ていて、どんな話をしても、ほんの一部を聞いただけで全てが理解できたし、相手もまた理解してくれた。それが嬉しくて、他の友人たちとでは考えられないほどよく話した。まるで仲のいい弟ができたような、いや、双子の弟が現れたようだった。
似ているといえば、真駒が選ぼうとしている研究対象が自分と近いことも驚きだったし、嬉しかった。他の院生たちにさえ通じないような話でも、真駒にならば簡単に通じたし、さらに興味深い意見まで聞くことができた。まだ一介の大学生だとはとうてい思えないほど、真駒の知識は豊富だった。これほど自分の話を理解し、さらに的確な意見までくれる人間は貴重だった。
内田が抱えている論文の構想について話してみても、真駒はあの穏やかな外見からは想像できないほど鋭い意見を返してきた。教授らがくれるアドバイスは、ほとんどは既になされた研究の紹介で、目新しいものはほとんどなかった。しかし真駒の意見はときどき従来の研究とは次元が違っていて、内田は幾度となく目から鱗が落ちる思いを味わった。たくさんの専門書を読んで勉強していながら、それまでとは違う視点も持っている。ただ海外の研究を翻訳してありがたがっているだけの教授たちとは明らかに格が違っていた。
研究室で、互いの自宅で、議論を繰り返し、時には資料集めも手伝ってもらって書き上げた論文は、学会で議論を呼んだが、おおむね高い評価を得た。同じ院生仲間には羨まれたものの、内田はそれが自分だけの力で完成したものではないことをよく知っていた。
「……みんな、すごいと褒めてくれるけど、あの論文、本当は君が書いたようなもんだよな」
「えっ?」
喫茶店の向かいに座っていた真駒は、意外なことを言われたという顔をした。
「どうしてですか。内田さん、何度も何度も練り直されて書き直されて、頑張ってらしたじゃないですか。私はほんのちょっと資料探しを手伝っただけです」
「……でも、学会で評価されたのは、君が意見をくれたところばかりだ。俺の論文じゃない、君の考えが認められたんだ」
「そんなことはありません!!」
どんな時でも常に穏やかな話し方をする真駒が声を荒げたのは、内田が覚えている限り、この時ただ一度だけだ。
「私はただ、内田さんが自分で見つけて掘り下げていた話を聞いて、少し思いつきを述べただけです。それを受けてあなたが更に深く掘り下げられた。それが認められたんです。内田さんは絶対にすごい。私が保障する!」
「……君が保障してくれるのか?」
問い返すと、相手は急にばつが悪そうな顔になった。
「……院生でもないただの学生が保障したって役に立ちませんか」
「……いいや」
テーブル越しに真駒の手を取って固く握りしめた。本当は、全力で自分を励まそうとしてくれているこの後輩をまるごと抱きしめたいぐらいだった。
「他の誰が保障してくれるより信用できる。……ありがとう」
その言葉には一片の嘘もなかった。
真駒の出自を本人の口から聞いた時、内田は自分でも不思議なほど驚きを感じなかった。
そもそも最初に会った時から、真駒は内田が知っている人々とはどこか違う雰囲気を漂わせていた。さすがに面と向かっては口にしなかったものの、幾度となく『「ノーブル」というのはこういうことか』と思わされた。いったいどんな生まれなのか、気になりながらも聞きづらく、ひとりであれこれ考えもした。生活に余裕のなくなった元華族か、有名な大学者の息子か。しかしどの憶測も、どこかしっくり来なかった。
それが、なんと有名な目白一族の末裔だという。驚くより、すとんと納得する気持ちの方が強かった。なにしろ、他のどんな知りあいとも似ていない不思議な男なのだ。有名なエリート一族の血を引いていたとしても驚くには当たらない気がした。
内田にとってはそんなことより、真駒がこのまま大学に残ってくれるという話の方がはるかに大事だった。この後輩が居てくれれば、自分はこの世界で成功できるのではないかという計算はもちろんあったし、それ以上に、この世界でいつまでもこの男と一緒に進んでいけると考えただけで純粋にワクワクした。自分の前にはバラ色の未来が広がっているような気がした。
しかしその陰で、醒めた自分が告げていた。真駒とは切っても切り離せないあの気品や誠実さが目白一族の血によるものなら、その政治家一族の血もまた、真駒とは切っても切り離せないものだろうと。
それから一年ほど後、学内の並木が色づき葉を落とし始めた頃、内田はその直感が外れていなかったことを知らされた。
「……お話しするのが遅くなってしまったんですが、私は院には進学しないことにしました」
「えっ……!? ……でも、それで……卒業するのか?」
「はい。先生方にはもうお話ししました。……本家から急に呼ばれて、代議士を目指すことになりました」
「……………」
呆然と真駒を見上げた。ショックよりも、『ああ、やはり』という気持ちの方が勝った。やはり、来るべきものが来たのだ。
「……内田さんには、ずっと、このまま大学に残ると、一緒に研究の道に進むとお話ししていたのに、約束を違えるようなことになってしまって、本当に申し訳ありません」
我に返ると、真駒が苦しげな表情で話し続けていた。放っておいたらこのまま大学のど真ん中で土下座しかねないような悲壮感が漂っている。あわてて笑顔を作り直した。
「『本家から呼ばれた』って、君に跡継ぎになれってことか?」
「……目白本家の跡取りではありません。おそらく県議会か何かで、一族の候補が必要になったのではないかと思います」
「でも君が『一族の候補』になるってことは、正式に目白の一族に迎えられるってことだよな」
「はい。本家の養子に入るようにと」
この1年半の間、何度となく見上げた真駒の目を見た。
そう言われてこの男が拒むはずがない。この物静かな、しかし実は誇り高い男が、幼い頃から長いこと憧れ続けていた「目白一族の座」を約束されたのだ。何を捨てても必ず行くだろう。そして、行くべきだ。自分が本当にあるべき場所へ。
「……良かったな」
「……えっ?」
「これでもう、陰でこそこそ噂されることもなくなるじゃないか。堂々と目白の名を名乗れるようになるんだ」
「…………しかし」
「君なら絶対すごい学者になるだろうと思ったんだがな。でも、たしかに君なら、お父さんを超えるようないい政治家になれる気がする。きっと大変な世界だろうけど、君なら行ける。頑張れよ」
真駒が詫び口上を再開しようとする気配を感じて、その言葉をさえぎった。この大切な後輩であり親友である男が、生真面目に自分を責める姿を見るのは嫌だった。果敢な決断をした男が、馴染みのない厳しい世界へひとり乗り込んでいくのだ。何の力にもなれない分、せめて笑顔で明るく送り出してやりたいではないか。
申し訳なさに大きな体を小さくしている真駒の肩を、心からの励ましをこめて叩いてやった。
別れた後、一度も降りたことのない駅で降りると、たまたま目についた安居酒屋でひとり、味のしない酒をめちゃくちゃに飲んだ。少しも酔えなかった。まるで酒が、胸に空いた穴からそのまま流れ出てしまうようだった。
真駒とは、卒業式の後、大学で別れた。
地味な灰色のスーツを着た真駒は、他の卒業生たちとは比べようがないほどの落ち着きと風格を身にまとっていた。これが政治家一族の血というものか。内田は感心して眺めた。
「それじゃ吉田、元気でな。真面目なのはいいけどあんまり無理するなよ」
「ありがとうございます。内田さんもお元気で」
「遠いからなかなか行けないと思うけど、ここでずっと応援してるからな。君なら絶対にすごい政治家になれる。頑張れよ」
「内田さんだって、きっと一流の研究者になれますよ。私の分まで頑張って下さい。そして、いつか私がここへ戻ってきたら、その時はきっと有名な教授になって迎えて下さい」
「戻ってくるのか?」
「普通の人が定年で辞める年になったら、私も辞めて、一介の研究者になろうと思います。その頃にはもう大学なんかでは採ってもらえないでしょうけど、学会に入れてもらって論文を発表するぐらいはできるでしょう」
「そりゃいいな。悠々自適な『第二の人生』か。俺が生きてるうちに戻ってこいよ。待ってるからな」
出世した政治家が60やそこらで引退するなんて話は聞いたことがない。それが別れ際のリップサービスであると知りながら、内田はその話に乗った。それは魅力的な夢だった。