遠ざかっていく真駒の背中が、「素晴らしい未来」の後ろ姿に見えた。
何を考えているんだ。吉田と会う前の俺に戻って、自分ひとりで道を切り開いていくんだ。そうしなければ、「一流の研究者になって吉田を迎える」というあの約束が果たせない。
自分で自分を叱咤しながら、内田は研究に、そして求職に励んだが、悪い予感は次第に現実のものとなった。
いくら論文を書いて発表してみても、真駒が意見をくれた頃のような評価は得られなかった。なにより書いている内田自身が「何か足りない」ことを感じていた。しかしいくら努力してみても、それを埋めることができなかった。
出世の方もうまく行かなかった。内田を追い越して、後輩たちはさっさと助手から助教授になっていった。「あいつはD教授のお気に入りだからな」「やっぱ有名な学者の息子は得だよなぁ」などという噂を何度も耳にした。いい仕事にありつけない仲間たちは、ひとり、またひとりと学問の世界から離れていった。
それでも内田は、翻訳の内職などをしながら助手として大学に残り続けた。もし真駒が自分の消息を調べて、自分がこの世界を去っていたと知ればどう思うだろう。それを思えばどうあっても逃げ出すわけにはいかなかった。
そんな生活の合間に、新聞の政治面を見るのが内田の日課になった。
A県で県議会議員選挙があると知った時には、詳しい状況を知りたくて大きな図書館まで飛んでいった。地方新聞の選挙関連記事に「目白真駒」の名を見つけた時には息をのんだ。あいつは着々と進んでいるんだ。
大学とA県は離れていたから、A県の地方選挙のニュースなど、なかなか手には入らない。選挙の日が近づくにつれて、内田は気もそぞろになってきた。当日はもう何をやっていても上の空だった。テレビやラジオのニュースに張りつきすぎて寝不足になった翌朝早く、ようやく真駒の初当選を知った。もう居ても立ってもいられなかった。朝食もとらずに家を飛び出した。
A県にある真駒の選挙事務所に着いたのは、もう夕方近くだった。タクシーの運転手に場所を調べてもらい、どうにか前までたどり着きはしたものの、小さな事務所は人でごった返している。
無関係の人間がふらりと入れる雰囲気ではなさそうだ。おまけに夢中で飛び出してきた内田は普段着だったから、見た目からして場違いな気がする。しかし、せっかくここまで来たのだ。もしあの中に真駒がいるのなら、せめて顔だけでも見て帰りたい。内田は意を決して中へ入った。
案内係でもいれば名乗ろうと思ったが、勝利の余韻が未だ冷めない事務所の中は、支援者らしい人々であふれ返っていて、どこに事務所のスタッフがいるのか分からない。しかしこれだけ人が多いということは、きっと吉田はここにいるのだろう。そう思って背伸びしながら室内を見回していると、群衆の波の上に見覚えのある顔を見つけた。目が合った。
人混みの中でも目立つ背の高い男が、人をかきわけるようにして近づいてくるのを、内田は夢の中にいるような気持ちで見ていた。たしかにあれは自分が探していた男だ。穏やかな笑顔も、あの独特の雰囲気も変わってはいない。しかし、淡いグレーの高価そうなスーツと、嫌味のない威厳をごく自然に身にまとったその男は、もう完全に自分とは別世界の人間だった。そうだ、この男はもう自分が知っている「吉田真駒」ではない。れっきとした代議士・目白真駒なのだ。
ありきたりな祝いの言葉を述べ、駅前で買った花束を渡すと早々に事務所を出た。事務所の壁際に並べられた立派な花々を目にした後では、自分が買っていった花束など貧弱すぎて、差し出すことも憚られるほどだった。人々の怪訝そうなまなざしが痛かった。
「あのぅ、内田さま、武先生から伝言をお預かりしております」
「……え?」
席まで案内してくれた青年の声で、内田は現実に引き戻された。
「ええと……内田さまが真駒先生に贈られた万年筆ですが、真駒先生の棺の方に一緒に入れられているそうです。それでは私はこれで……」
「どうして、そんなものを!?」
せわしなく次の仕事へ向かおうとしていた青年は、急に怒り出したかのような相手の反応に驚いたようだった。
「『どうして』と申されましても……贈られたというのは、あの、緑色の万年筆ですよね? たしかに真駒先生は、あれを本当に大事にしてらして、それこそ肌身離さずお持ちでしたから、きっとご遺族の方々が、先生に持たせて差し上げようとお思いになったんじゃないでしょうか」
「そうじゃない! あいつはあんな安物を今まで律儀にずっと持ってたってのか!?」
「そうですよ」
それまで形式的な礼儀正しさを守っていた青年は、『そんなことも知らないのか』という呆れ顔になった。
「見習いの僕でも知ってる有名な話です。真駒先生、どんな場所でも堂々とあのペンをお使いになるんで、見た方々がみんな気にして、立派なペンを贈ってこられるんです、『これ使ってください』って。それなのに、あれだけはとうとう変えられませんでした。贈り物のペンはみんな他の人に譲ってしまわれて、あれの調子が悪くなったら、知り合いに頼み込んで直させて。あれ、貴方が贈られたものだったんですか……」
万年筆を贈ったことは覚えている。
県議会議員選挙の数年後、真駒がとうとう衆院選に立候補したことを知った。目白の本家が真駒を担ぎ出した事情も、内田はこの時、雑誌の記事を読んで知った。
そんな激戦では、若くて経験不足な真駒には不利ではないか。頭ではそう分析しながらも、先代の支援者をまとめ切れなかったような候補者たちにあの真駒が負けるはずがないとも思った。そんなことを考えながら街を歩いていると、ふと、文房具屋のショーウィンドウに視線が吸い寄せられた。
手帳や万年筆など、高価そうな文具が展示されているその片隅に、深い緑色をした万年筆があった。圧倒的に黒や紺、そして茶色が多い文具の中で、その色は明らかに異彩を放っていた。並べられている場所からすると、有名な海外メーカーのものではないのだろうが、仮にもショーウィンドウに飾られる万年筆だ。安くはないだろう。
その美しい緑色は、内田が漠然と真駒に抱いていたイメージそのものだった。穏やかで独特で、人を落ち着かせてくれる深い色。森の木々の緑。セルロイドが作り出す柄と濃淡が、その緑に個性と親しみやすさを加えている。
どうしてもそれを真駒に贈りたいと思った。店に入って値段を聞くと、やはり決して安い買い物ではない。しかしそれでも、真駒が当選した日には、たとえ生活費を切り詰めてでもそれを買おうと心に決めた。
真駒当選のニュース速報を確認した翌朝、内田はその文房具屋に飛んでいった。緑の万年筆は、まるで待っていたかのように、同じ場所にひっそり飾られていた。
買う前にはその先のことなど考えていなかったのに、いざ買ってしまうと、今度はそれを一刻も早く渡したくてたまらなくなってしまった。
発作的に駅へ駆け込みA県を目指したものの、その列車の中で、内田は次第に不安になってきた。前に当選祝いに駆けつけた時の、あの惨めな思いが蘇ってきたのである。
例によってスーツも着ていない。お祝いにしても、今度は国会議員の当選祝いなのだ。万年筆を贈るのなら、海外ブランドの高価な品に決まっている。それでも真駒は人がいいから決して邪慳にしたりはしないだろうが、こんな冴えない祝い客など、真駒の格を下げるだけではないのか。
年賀状はやり取りしているのだから、住所は分かっている。これはお祝いの手紙を添えて送れば良かったのだ。高かった列車の切符を恨めしく眺める。
いや、でも、今さら後悔しても仕方がない。座席の背にもたれて内田は思い直した。結局、自分は真駒の晴れ姿がこの目で見たかったのだ。テレビや新聞で見ただけの「目白真駒・当選」が本当に本当なのかどうか、自分の目で確かめたかったのだ。それなら実際に現地へ行ってみなければ気持ちが収まらないではないか。
選挙事務所は前より繁華街に近く、そして大きくなっていた。もう夜になるというのに、その大きな事務所にはたくさんの人が詰めかけていた。外にまで祝いの花があふれている。
真駒は中にいるのだろうか。誰にこの祝いの品を託せばいいのだろう。きょろきょろしていると、急に事務所の中が騒がしくなった。中にいた人々が通りへあふれ出てくる。人混みにのみこまれた格好の内田は、必死で背伸びし人をかきわけ、何が起きているのか確認しようとした。
と、黒塗りの車が事務所の前に止まった。車から降りてきた男の顔に見覚えがある。あれは大学時代の知り合いである武だ。そういえば彼は法学部のエリートで、卒業後は政治家の秘書になったという噂を聞いたことがある。まさかこんなところで働いているとは思わなかった。
続いて車から降りてきたのは真駒だった。周りの人々からどっと歓声が上がる。相変わらず物静かでありながら、歓声が起こるのも無理はないと思わせる存在感がある。すでに「国会議員」という肩書きに負けない風格を身にまとっている。
歓声の中、事務所へ歩いてゆく真駒を、内田は見とれる思いで眺めていた。たしかに一時、自分のすぐ隣にいた男が、どんどん立派になってゆく。確実に輝かしい階段を登ってゆく。それも何の違和感もなく、あの男らしく、着実に。
潮が引くように人々が事務所へと戻り、入れ替わるようにひとりで事務所を出てきた武を見て、ようやく内田は持ってきた「お祝い」のことを思い出した。慌てて駆け寄ると、挨拶の言葉もそこそこに、持ってきた小さな包みを武に手渡した。「会って直接渡せばどうか」とは勧められなかった。そんな余裕は真駒のスケジュールにはないのだろうし、内田にも今の真駒をわずらわせる気はなかった。輝くような姿を我が目で見られただけで満足だった。
それから半月ほどして、真駒から礼状とお礼の品が届いた。
見覚えのある整った文字で綴られた手紙の方は、何度も読み返した後で大切にしまっておいたが、お礼の方には困ってしまった。高価な舶来ものだと一目で分かるネクタイだったからだ。どう少なく見積もってもあの万年筆の数倍の値段はするだろう。これではお祝いどころか「エビで鯛を釣る」そのものだ。
礼状には「学会の時にでも使って下さい」とあったが、そのネクタイを締めれば、安物のスーツと釣り合いが取れず、かえって貧相に見えることは確実だった。
落ち着いた、上品な柄のネクタイだったが、とても使う気にはなれず、箱のままタンスの奥にしまいこんだ。こんなに気を遣わせてしまうのなら、つまらないお祝いを贈るのはもう止めようと思った。
これ以来、内田は真駒に物を贈ることはしていない。これ以降も繰り返されることになった当選のお祝いには、手紙を出すにとどめた。
遠く、大勢の参列者の向こうに置かれている棺を見た。今となってはもうおぼろげにしか覚えていないその万年筆が、あの棺に入っているのだという。立派な棺の中に、豪華な花々に混じって入れられている安物の万年筆。その図を想像すると、なんだか滑稽で悲しかった。
あんなつまらない贈り物に、周囲に笑われながら最後まで縛られていたとは。俺が横で睨んでいるわけでもなし、格に見合ったものを使えば良いじゃないか。どこまでバカ律儀な奴なんだ。そんなことになるのなら、気まぐれにあんなものを贈るんじゃなかった。
ぶつけたい思いが胸で渦巻いた。しかし、ぶつけるべき人はもういない。それが内田にはどうしても信じられなかった。自分より年下だったのだから、まだ60になったばかりのはずだ。それがなぜ、なぜよりにもよってあいつが。
訃報を伝える新聞の大見出しは、何かの間違いだとしか思えなかった。葬儀に参列してみても、その葬儀も、遺族や武の弔辞も周囲のすすり泣きも、悪趣味な冗談だとしか思えなかった。
悪い夢を見せられたような思いで会場を後にした。涙も出なかった。
しかし痛手は、後からじわりじわりと効いてきた。
良い仕事にも役職にも恵まれなかった内田の身分は「非常勤講師」のままだった。「もう若い連中に席を譲ったらどうだ」と言いたげな周囲の目を無視し、さまざまな大学の講師の席を転々とした。「有名な教授になって真駒を迎える」という約束は果たせないことが確実になったが、それでも「この世界で真駒を迎える」という夢までは手放せなかった。
講師の採用面接で、試験官に哀れむような顔をされるたび、若い研究者の優れた論文や研究発表を目にするたび、真駒の言葉を思い出して歯を食いしばった。俺はあの吉田に認められたんだ。まだ行ける。こんなところで終わるはずがない。
仕事の合間に、新聞や雑誌の政治欄で真駒の記事を探すのが、数少ない貴重な楽しみだった。どんなに疲れていても打ちひしがれていても、真駒の動静を伝える記事や写真を見ただけで力づけられた。かつて隣にいたあの吉田が、まさしく超一流の舞台で頑張っている。頂点まで登りつめようとしている。その姿は、内田にはまぶしく、誇らしかった。
その真駒が死んだ。
それ以降も変わらず、内田は教壇に立ち、論文を書き続けた。しかしそれはもう、長年繰り返してきた作業を惰性で繰り返しているだけに過ぎなかった。
いくら自分がここで頑張り続けても、もう真駒は戻ってこない。その事実は重かった。約束した当時から、そんなことはまずあり得ないと分かってはいた。分かっていてもその約束が、「約束」という形の夢が、ずっと内田を支え続けてきた。
それが予想だにしない形で、あっけなく消えてしまったのだ。
その年、内田は母校であるR大で非常勤講師をしていた。契約は1年単位だったから、翌年の3月で切れる。そしてこの年に国立大の定年を迎えた内田は、翌年はもうR大で職を得ることはできなかった。
国立大で定年を迎えた研究者は、そこで引退はせず、私立大などへ移るのが普通である。仕事を続けるつもりであれば、新しい職場を探すしかない。ところが内田はもう、新たなポストを求める気力を失ってしまっていた。
特に学会で名が通っているわけでもない。若い研究者を差しおいても大学が採りたがる人材でないことは、自分でもよく分かっている。苦笑いを浮かべた若い試験官を前に、頭を床にすりつける思いで職を求める気にはなれなかった。そうまでしたところで、大した待遇が期待できるわけでもない。
それに年々、大学院を出た学生の就職が厳しくなっていることも知っていた。求人は少ないのに、大学院は毎年、卒業生を吐き出し続ける。職を得られないオーバードクターが学内にあふれていた。こんな状態では、評価の低いベテランはさっさと辞めて欲しいと思われても仕方がない。そんな視線を無視して仕事を奪ったところで、何の意味があるというのだ。
もう誰も自分など必要としていないというのに。