翌年の3月初め、内田は事務手続のために、久しぶりに大学を訪れた。
最後の講義は1月に終えていた。教授の引退なら話題にもなるが、無名な非常勤講師が引退することなど学生たちは誰も知らない。花束のひとつも出てこなかった。
もし今、真駒がひょっこり大学を訪ねてきて、こんな自分の姿を見たらどう思っただろう。有名な教授どころか、誰からも惜しまれることのない敗残者。かつてはそれなりに優秀だと思った先輩が、誰からも忘れられたようにひっそり引退していく。そんな姿を見せて、失望させずに済んで良かったのかも知れない─────
手続を終えて建物を出ると、もうそこですることは何もなかった。初めて足を踏み入れてから、もう40年以上が過ぎている。建て替えられた施設もあるが、構内の景色はそれほど変わっていない。正門へ続く古い並木道、芝生の広場の中を突っ切る細い歩道を行けば、その先は文学部棟だ。馴染み深い景色を眺めていると、今でも若い真駒がそこを歩いていそうな気がする。
ひとわたり、目に焼き付けるように見渡すと、駅の方へ向かって歩き出した。今さら名残を惜しんでみても仕方ない。
「内田先生!」
声に驚いて振り向くと、准教授のSが駆け寄ってきた。
「良かった! 手続があるから絶対に今日は大学へ来られるだろうと思ったんですけど、もし見つけられなかったらどうしようかと思いました。お時間大丈夫ですよね? みんな待ってます。『お疲れさま会』やりましょう!」
「……『お疲れさま会』?」
「ええ。本当なら最終講義の後にすれば良かったんですけど、あの頃はみんな学生の論文で手一杯で……。本当なら『送別会』なんですが、内田先生はもうリタイアされるというので、『お疲れさま会』ってことで」
言うだけ言うと、Sは文学部棟とは反対の方向をさして歩き出す。
「おい、いったいどこでやるって言うんだ?」
慌てて追いかけながら聞いてみる。これでは、新しくできた理系の研究棟に着いてしまう。
「Y先生がいい場所見つけたからって。こっちです」
理系の研究棟の脇を抜け、その裏手へ出た。そこはまばらな林になっていた。研究棟が建てられた際、大半がつぶされた林の残りである。その林の向こう側から人のざわめきが聞こえる。
「お〜い! 内田先生連れてきたぞ〜!」
歓声をよそに、内田は落ち着かない思いであたりを見ていた。この眺めにはたしかに見覚えがある。かつて林が健在だった頃、気分転換によく訪れた、あのルートだ。あれだけ大きな施設が建てられたのに、まさか残っていたとは思わなかった。この土手を登ると景色が開けて……
「お疲れさまでした!」
そこで待っていた学科のスタッフたちがいっせいに声をかけてきた。多くは学生時代の後輩たちだ。
「とにかく、最終講義の後に何かしようって言ってたのに、内緒にしてたら内田先生、さっさと帰られちゃって……今日もそうなったらどうしようかと」
「だからオレは電話しとけって言ったのに」
「本当にもう完全に引退されてしまうんですか? まだお若いじゃないですか」
林と崖にはさまれた狭い場所で、人々と花束とにわっと取り巻かれて内田は戸惑った。
それにしても、なぜこんな何もない場所にみんな集まっているのか。3月になったとはいえ、まだ吹く風は冷たい。『お疲れさま会』をするにしても、わざわざこんな場所を選ぶ必要はないはずだ。
「……ありがとう。でも、どうして、こんなところで?」
その言葉に、内田を取り巻いていた面々は顔を見合わせ、一様に意味ありげな笑顔を浮かべた。
「あれなんですよ」
Yが手でさっと横を示した。
青空の下、ヤマザクラが見事に咲き誇っていた。
「……バカな。どうしてこんなに早く……」
「内田先生もそう思うでしょう? 分からないんですよ。一週間前にY先生が見つけて」
「散歩してたら、この裏手へ入っていく人を見たんですよ。あんな裏手にいったい何があるんだと思って見たら、花びらが1枚、風でひらひら舞ってきて、それで見つけたんです。ビックリしましたよ」
「それで、先に歩いてたはずの人はいなかったってんだから、ちょっと気味悪いよなぁ」
「まだ3月になったばかりなのにな。ソメイヨシノのつぼみだってまだじゃないか?」
「もうだいぶ老木みたいだし、ボケたんだろ」
「これも地球温暖化の影響ですかね」
「いや、この冬はちっとも暖かくない」
皆の会話が耳に入らないかのように、内田はひとり、懐かしいヤマザクラへと歩み寄った。
そして不意に立ち止まった。
ヤマザクラの根元に、長身の男が立っていた。
かつて内田がここへ連れてきた時と変わらない姿の真駒が、薄紅色の大きな花束を抱えて微笑んでいた。
「よし……!」
声が思わず口をついて出た。
その瞬間、ひときわ強い風が吹いて桜を散らした。風が止んだ時にはもう、樹下の人影は消えていた。
満開の桜だけが後に残った。まるで立派な花束のように。
花見の用意をしようとしていた後輩たちは、その日の主役のただならぬ様子に動きを止めた。
内田は無言で、老いた桜を抱きしめるように腕を回すとその幹に顔を押し当てた。その肩が小さく震えていた。
誰ひとり、声をかけることさえできなかった。
桜の花びらだけが内田に、そして一同に降りかかり、早春の風に舞っていた。
出発の時間が迫っていた。
準備はほとんど終わっている。荷物は小さなスーツケースとウエストポーチだけだ。ウエストポーチには財布とパスポート、そしてロンドンまでの航空券。財布の中には、古い真駒の写真が一葉。
『君が何度も行ったような豪華な旅行じゃないんだぞ。飛行機はエコノミー、宿は行ってから探す貧乏旅行だ。たまにはそんなのもいいだろう? 代わりに時間はたっぷりある。史跡から資料まで片っ端からじっくり見て回ろう』
帰ってきたら、現地での調査結果とこれまでの研究の全てをまとめた本を書こうと決めている。真駒の目をも通して得た見聞は、きっと本を素晴らしいものにしてくれるだろう。
最後に、タンスの中で眠っていたあのネクタイを締めると、スーツケーツ片手に家を出た。内田の目の前には、淡い穏やかな春の青空が広がっていた。
《完》